いのち

「いのち」

 

 毎年5月の連休を夫婦ぐるみで過ごす私共の旅行は、今年は伊豆長岡温泉の三養荘にした。
岩崎財閥が造築した別邸とか、広大な庭園、古今の名画を掛けた座敷、豊かな湯のほか、
裏山の松林の中に数年来見ていなかったキンランを見付けたことも嬉しかったが、
到着早々女中さんが入れてくれたお煎茶が、
とっても美味しかったこともまたお茶の産地を偲ばせて、
5月の清々しさが一入であった。
その時の女中さんから聞いた話しだが、
去年の新茶も今頃の新茶の時節になると新茶にもどるそうだ。
去年の新茶も改めて生命を呼び戻すのでしょうか。
或いは今釜年の新茶が出ると、同じ仲間と一緒になったことを喜び合うのでしょうか。
命をとり戻すというのだ。

医王山 平成3年 赤座欣治と ならたけが採れた!

 毎年春になると、山好きの私は日曜毎に山に入らざるを得ない。
青年時代は惟歩くだけ、重い荷物を背負って只管苦しむだけ、
山の中の一つの小さな生物になって山に埋もれることが
心の救いになるような気がしていたのだが、
五十才の時スキーで足を折ってしまってからは専ら低山趣味、
子供の頃親に連れられて行った蕨採り、茸採りになってしまった。
当時、白山山麓から出て来た看護婦志望のK子が住み込んでいた。


 蕨を採って来ても、それが食膳に出すまでの調理が大変です。
どうしても2―3日遅れてしまう。これを見たK子が、
「先生、あゝもう蕨が山に戻ってしもうよ、早く料理して上げてね」
と無心に真面目に云うのです。
そうか、採られた蕨は未だ生命があるのだ。
そして命のある内に人様に美味しく食べられてこそ、
蕨はその命を喜んで捧げるのだ。
永く放置しておいては蕨は形骸を残して命は山へ戻って行くのだ。

蕗のとうの苦いのが好きだった

 新茶に戻る話、蕨が山に戻る話、こんなことを思い出していて、
或る日新聞をみた。
どこかのお寺の高僧が、
「お御堂に佛がある。しかしそのままでは佛は生きてはいない。私達がその御堂に入り、
その佛に相対し、その佛のお顔を見た時に、佛は私達に対し話しかけてくるのだ」
と書いておられた。


 すべての物に命がある。生物にも無生物にも。


 絵にしてもそうだ。
その絵には画家の命が篭もっていると云われるけど、蔵にしまい込んでいる限り
、絵に篭められている命は息をとめている。
絵が壁に掛けられ私共がその絵に対してこそ、
その時にこそ絵は喜んで我々に話しかけて来るのだ。命を噴き出すのだ。


 色々のものに命がある。
これらのものの命は私共が見付けることによって私共に語りかけるのだ。


 私共は余りにも自分の命の事だけを考えるだけだったことに気付いていない。
今後私共以外の色々の命を見付けて、あい共に生きていかねばならんのだと思う。

 さて 帰るとするか 岳と

之は父 弘が生前 平成8年ごろ書いたものである・想い出のために

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